昭和31年7月。とても暑い最中に大阪のとある助産院で生まれた私。難産と共に衰弱した状態で生まれた私は、当時その助産院では冷房が無く扇風機だけ。暑いから扇風機の風を掛けると息が止まりそうになる。それで団扇で扇ぐしかない。難産だったから母親に扇ぐだけの力が出ない。初めての子供に父親が四六時中団扇で扇いだ。往診に来た医師はろくに診てくれない。聞けばそのうち死ぬだろうという。父母共に憤懣やるかたなし。何が何でもと父親は団扇で扇ぎ続け、やがて退院。入院時と同じく帰りも父親の運転するダットサン。生まれて直ぐ死にかけだった私は67歳の誕生日を迎えた。